最初のうつ
ようやく震災対応から解放されたのは、年が明けてからだった。
市町村合併の準備を再開できたのも同じくらいのタイミングだったと思うが、合併の準備が止まっても、合併する日は予定どおり4月1日で変わらなかったため、急ピッチで遅れた分を取り戻さなければならなかった。特に3月は毎日残業だった。
そして、何とか迎えた合併前日の3月31日。私の部署はその日の会計を、通常3日かかるところをその日のうちに処理して、さらにその日のうちにその年度の会計を閉めて、翌日からの新しい会計の受け皿を用意しなければならないという処理を行う必要があった。
社会人になって初めての徹夜だった。これらの処理を何とか4月1日の朝までに終わらせることができたのだが、合併初日のその日はトラブルもあって、徹夜明けにもかかわらず、ようやく帰宅できたのは22時過ぎだった。
ほかの部署は合併日前後の2日間、旧市町村との別れや新市の門出を味わえたようだが、私たちはそれどころではなかった。
でも、そんな大変な作業も2日間だけならなんてことはないのだけれど、残業は5月が終わるまで毎日続いた。各部署からやって来る大量の支払伝票の処理で。
業務量に対して、係員の数が全く足りていなかった。あと2人は必要だった。
特に4月はひどかった。休みは1日もなし。
平日は深夜1~2時まで残業し、土日の休日も22時くらいまで働いた。
徹夜も3~4回した。徹夜した日は、朝6時くらいになると一旦家に帰り、風呂に入って着替えて朝食を取って、8時半までにまた職場に戻るというような具合だった。
4月の残業時間はなんと244時間!過労死ライン(80時間)の3倍!!平均すると毎日8時間の残業。日中の労働時間と同じ時間を夜間や休日も働いたことになる。
よくこんなに働けたものだと我ながら感心するが、とにかく目の前の仕事をこなすのに必死だった。
ピークは4月だったが、毎日の残業と休日出勤は5月も続いた。5月の残業時間は175時間だった。続く6月は95時間。過労死ライン超えの残業は、2月~6月まで5か月間も続いた。
当然ながら、身も心も限界を迎え、ゴールデンウィーク(といっても毎日仕事だったが)明けの頃には、昼休みになると職場近くの病院で点滴を打ってもらい、また、別の病院で処方してもらった抗うつ薬を飲むという生活となった。
これが初めて経験するうつだった。
7月になって職員が増員されたこともあり、ようやく激務から解放された。
残業せずに帰れたり、土日に休めたりできるようになって、やっとこれで落ち着けると感じた頃、突然ほかの部署へ異動することになった。10月から市の予算などを担当するB課へ行けという人事異動だった。
私が心身ともに大変だからと上が気を利かせて仕事が楽な部署へ異動させるというものではなく、B課も忙しいところで、療養休暇に入った職員の代わりに私が行くというものだった。10月から新年度の予算編成作業が始まるという、これから忙しくなるタイミングでの異動だった。
うつで休んだ人の代わりに、同じくうつの私が行くというものだった。私はうつであることを内緒にしていたので、上は知らなかったのだけれど。
結局このときは、抗うつ薬を翌年の秋までの約1年半飲み続けた。仕事を休むことなく、がんばり続けられた。このときは。